思い返せば私と鯛の浜焼きの出会いは2011年4月。
私は当時、自身の福山市で経営する飲食店は店長やパートさんたちに任せ、関東首都圏で大手外食企業に勤めながら今後自身の会社を成長させるべくノウハウを学んでいた矢先に店長退職に伴い、やむなく3月2日に帰省した所で起こった東日本大震災。何か不思議な力を感じざるを得ませんでした。
いつ自分や大切な人が亡くなるか、わからない。
ならば挑戦あるのみだ!と意気盛んに同福山市で二店舗目の出店に挑み、その店の看板料理となるような瀬戸内らしい料理を探しながら馴染みの尾道の仲買(魚屋さん)を物色していると大きな番重にたっぷりの塩がまぶされた大きな鯛が並んでいました。
私:これは何?
魚屋:え?浜焼きじゃがぁ。帰って工場で焼くんよ。
私:浜焼きって何?
すると周りで魚を捌いたり談笑してたり様々な人たちの空気が止まり、
え。浜焼きも知らんの⁈ と皆んなに馬鹿にされたように笑われました。
魚屋:鯛に塩をまぶして炭火で焼いた料理で尾道を代表する料理よ!
その時、時間が止まり後ろから『ブアァーーー!』と風が吹き次の店の看板料理はこれだ!と直感しました。
何より日本人が古代から大切にしてきた鯛と塩からだけで造られる事にとても魅力を感じ、凄くカッコいいなと直ぐに浜焼きに魅了されました。
私自身、十代の頃に宮大工 西岡常一さんの世界観に惚れ込んで奈良に何度も弟子入り志願しましたが叶わず、料理の世界に流れ着いた経緯もあって、この料理を継承することで歴史に残る仕事が自身も担えるのではないかと感じました。
魚屋さんもお店で浜焼きをやったらいいよと快く言って頂き、実際に焼き上げる風景や竈の構造なども色々教えてくださり焼き始めた事が始まりです。

何と店の入り口脇に浜焼きの竈を造り焼いていました(笑)
その二年後の2013年3月2日に備後茶量を開店し、現在に至るまでどんどん浜焼きを製造する竈元が廃業し浜焼きを教えて下さった魚屋さんまでも辞めてしまいました。
それまでは浜焼きを送って欲しいと声を頂いても発送はその魚屋さんにお願いしますと断って来ましたが、もう浜焼きが無くなってしまうのではないかという危機感を感じ、これまで行ってこなかった全国発送の為の商品開発を2019年から本格的に行っており、翌年の桜鯛のシーズンには開始したいと思っていた矢先。
2020年3月から皆さまの記憶にも新しいコロナウイルスの蔓延、飲食店営業もままならない事態となりました。
2020年4月から鯛の浜焼きの全国発送を開始し、様々なご縁を頂く中でもご注文の8.9割は大切な人への贈り物としてのご依頼でした。
御依頼主さまからのお心を鯛の浜焼きに込め、大切な人へお届けする。これまでの飲食店営業では味わうことが出来ない人間の美しい心を結ぶ仕事を体感し、
ようやく自分自身。生涯命を掛けて取り組む仕事に出逢う事が出来た。 そう感じました。
ならば鯛の浜焼きが江戸時代 尾道で焼かれ始めるキッカケとなった塩造りを大規模に行う製塩所を建設しようと2022年1月に天空の塩パピタが完成し、今では鯛の浜焼きは勿論。レストラン営業や漬物、梅干しなど全量自家製の天日塩でまかなえる製造量となりました。
同2022年 炭も尾道の里山で間伐された木で造られた門田炭焼きの里の黒炭を使って焼き上げています。
紀州備長炭などには遠く及ばない三級品以下の代物ですが、その不完全さがどこか素朴で何故か最初に焼き上げた鯛の浜焼きを観て私の口から
『懐かしい。』という言葉と共に大粒の涙が溢れ出してきました。
おそらくこの料理には眼には見えないとても強い力があるのだと思います。私の中にある何世代もの祖霊の血が懐かしさを覚え、喜んでいるようにも感じます。
命を掛けれる仕事に出逢えた事。
そのような料理が生まれ育った町 尾道で継承されていた事。
今、鯛の浜焼きを製造する竈元は私たち1軒となってしまいましたが後の世代に生きる人たちが私が感じたと同じように自分もやりたいと思える崇高な料理としてバトンを渡せるよう私の生涯を掛け、焼き続けて参ります。
赤く、音を立てて燃え盛る炎はやがて熾火となり、灰になります。
栄枯盛衰。目紛しく移りゆく世界のなか
尾道名産 鯛の浜焼きは燃えつづけます。
誰よりも熱い。青い炎で。
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